ホワイトカラー・エグゼンプション

とにかくいろいろ考えてみなければいけません(考えたからどうなる、でなく)。
ひとつの資料として・・・

JMM [Japan Mail Media]   from 911/USAレポート / 冷泉彰彦
 
第285回「雇用システムへの信頼」配信日:2007-1-13

 前回、日本の「ホワイトカラー・エグゼンプション論議にあたって、アメリカの制度が正しく紹介されていないということをお話ししたところ、様々な反響がありました。また丁度、年末年始にかけて、この問題は色々な角度から議論されているようです。現時点では、厚生労働省は法案の提出に関しては、依然として強気であり上程は参院選後にするとか、最初は年収900万円以上にしてインパクトを小さくしようとか(後でお話ししますが、この900万という数字自体も大変に問題なのですが)、話の方向は法律を通すための方法論に向かっているようです。

 政府や財界としては、更に「労働ビッグバン」というマンガ的としか言いようのない名称の元に労働法制の大幅な改訂を目指しているようです。日本人の働き方が議論の対象になるのは素晴らしいことだと思いますが、改革の方向を間違えては大変です。下手をすると、日本経済の競争力も日本人の幸福度も吹っ飛んでしまうようなことになりかねないからです。

 ですから、厚生労働省並びに日本経団連が、アメリカの制度を「誤解」もしくは「曲解」して伝えていると言わざるを得ない、このことをもう一度掘り下げてお話しすることは、この時点で極めて重要だと思うのです。まず制度のネーミングですが、どうやら出所は「諸外国のホワイトカラー労働者に係る労働時間法制に関する調査研究」という「独立行政法人 労働政策研究・研修機構」が2005年3月に発行した報告書のようです。

 この報告書は「厚生労働省からの研究要請を受けて」取りまとめられたというのですから、この一連の制度改定のベースとなった資料とみなしても良いのでしょう。その報告書の38ページから39ページには、

「真正な管理職(executive)、運営職(administrative)、もしくは専門職(professional)の資格で雇用される被用者」は、一般に「ホワイトカラー・エグゼンプション」と呼ばれ、労働時間規制を受けない上級ホワイトカラーの代名詞になっている。

 という記述があります。まるでこの「ホワイトカラー・エグゼンプション」というのが制度の名前のような記述で、実際にこの部分の小見出しは「ホワイトカラー・エグゼンプション」となっているのです。ですが、実際にはアメリカでは社会問題として労働問題を議論する際にも、あるいは経営の立場から雇用条件を議論する際にも、あるいは日常生活の中で「あなたの仕事はどんな具合?」というような雑談をするときにも「ホワイトカラー・エグゼンプション」という言い方はしません。

 あくまでこの言葉は、労働法制に関する専門用語(術語)であって、「上級ホワイトカラーの代名詞」などというのは事実に反します。何故かというと「ホワイトカラー」という言葉自体が「ブルーカラーよりも偉い」というニュアンスがあって「ポリティカリー・インコレクト(平等思想に照らして不適切な表現)」な印象があるからです。では制度に何か名前があるかというと、特にそうではなく、どの国にもある「管理職と専門職は残業がつかない」という慣行がアメリカにもある、それだけだと思います。

 ただ、人材を採用する際などに、残業のつかない職種は「エグゼンプト」、残業のつく(したがって適用除外ではない)職種は「ノン・エグゼンプト」という言い方はします。それ以上でも、それ以下でもありません。また、今回ブッシュ政権の下で、所得要件の緩和などが行われていますが、そもそも「裁量権」や「部下の人事権(採用と解雇の権限)」あるいは「職歴や学歴の裏付け」などの厳密なチェックを伴って運用されているのは前回お話しした通りです。

 実はここにもう一つ重要な要素があります。それは、アメリカの職場における職務内容記述書(ジョブ・ディスクリプション)の存在です。その人は仕事として何をすればいいのか、誰の支持を仰げばいいのかということが文書化されたもので、採用の時点でも、毎年の年俸改訂の際にも、昇格や異動の際にも必ず見直して合意の上、本人がサインしなくてはなりません。

 このジョブ・ディスクリプションが非常に厳格に運営されている、それがアメリカの労働事情の背景にあるのです。厳格というのは正確に言うと「書いてあることはしなくてはならない」が「書いていないことはしてはならない」のです。特に「自分の職務として書いていないことで、他人の職務であることを勝手にやってはいけない」のです。

 つまり、職務内容が似通っている同僚の仕事を勝手に「カバー」するのは御法度なのです。日本からアメリカの企業(ないし日本企業の現地法人)に行くと、この点で非常に戸惑う人が多いのですが、「ジョブ・ディスクリプション」に書いていないことを命令することは基本的には難しいのです。例えば、秘書に仕事を頼もうと思ったら、出張の手配とか、ビジネスレターの清書などという項目を全て洗い出して、具体的に書いておかねばならないのです。

 上司は部下に対して「ジョブ・ディスクリプション」に書いていないことを命令するのは、どうして難しいのかというと、まず「約束していない成果は評価のしようがない」という思想があり、そして「自分の職務範囲の以外のことを行うというのは、他人の職務を侵すことになる」という発想があるからです。

 極端な例ですが、アメリカの学校では子供による掃除当番はありません。このことについて「どうして?」という子供の問いかけに対して大人達は「生徒が掃除をしてしまうと、掃除をする人の仕事がなくなってしまうから」という答え方をします。そして子供はそれに納得してしまう中で、知らず知らずのうちに「他人の職務を侵すな」という感覚を身につけていきます。

 更に言えば、こうした厳格な職務内容は、各人のキャリアに深く結びついています。
日本でよく言う「ゼネラリスト」という名の「何でも一通り経験した人材」などというものはなく、マーケティングならマーケティングの、そしてその中でも数値分析を中心とした戦略家なのか、あるいは消費者向けのキャンペーンやメディア戦略が得意なのか、あるいは商品開発の中でマーケティングを行うアプローチなのか、そうした専門性が問われていくのです。

 その専門性は職歴だけでなく、学歴にも関係してきます。ですから日本では良くある「大学は文学部だが、数字が得意そうだから経理」であるとか「理系だがセンスが良いのでクリエイティブ」というような人事は絶対にあり得ません。そのような専門性が学歴職歴という事実によってサポートされている中で、労働市場における人材の価値が生まれ、人は職を得ていくのです。

 アメリカの雇用制度は、そのような専門性と、そして「エグゼンプト」の場合は裁量性ということが実際に機能していて、その延長で「残業のつかない管理職、専門職」が存在しているのです。そうした全体像を無視して「アメリカではホワイトカラー・エグゼンプションが機能している」というカタカナの報告書で世論を煙に巻くというのは、厚生労働省にしても日本経団連にしても不誠実だと思います。

 では、日本の雇用制度はこのままで良いのでしょうか。決してそんなことはないと思います。財界が言うように、国際的な競争力の問題は無視できませんし、時代の変化スピードに対応できるような人材の育て方も、配置の仕方も必要でしょう。終身雇用を前提としたゼネラリスト候補を中心として、これに研究開発の専門職を加える、どちらも配置転換を繰り返して長期的な人材育成を行う、そんな「のんびり」した人事では対応できない時代です。

 では、思い切ってアメリカ型にするのが良いのでしょうか。相当部分は良いように思います。ですが、日本企業の美点である「各人が隣接する他の業務に精通している」ことや「日程の正確さや工作精度の要求度が高い」こと、あるいは「全員がコスト感覚を共有している」ということなどは、100%捨てるべきではないと思います。

 では、どの部分を残して、どの部分を変えていくのか。実はこの点はほとんど議論されていないのではないでしょうか。また雇用制度が変わっていくことは、求める人材が変わっていくと言うことであり、結果的にこれは教育制度にも大きく関係してきます。また、人々の文化や価値観にも関係してくるのでしょう。

 例えば、アメリカの場合、終身雇用は崩壊してしまう中、職を得るためには学歴と職歴をコツコツと積み上げるしかないプレッシャーの高い社会になっています。一旦得た職も、経営環境の悪化などの結果として解雇されることも十分にあります。その結果として、失職した人間が残った同僚を恨んで銃を乱射して自分も自殺するような、やり切れない事件も多いのです。

 そうであっても、アメリカ人が何とかやってゆけるのには、無邪気なまでに楽観的な姿勢であるとか、結果はともかく「機会の平等」だけは信じられるという、システムへの信任があるからなのでしょう。丁度、この年末年始のシーズンに、この「雇用の不安定」と「それでもチャンスを信ずる楽天さ」というアメリカらしい問題を描いた映画が大ヒットしているので、こちらをご紹介することにしましょう。

 日本でのタイトルは『幸せのちから』ということに決定しているようですが、原題は "The Pursuit of Happyness" で直訳すると「幸福を追い求めて」とでもいうような意味、ちなみにハピネスの綴りが間違っているのがご愛敬です(どうしてかは作中のエピソードに関係があるので、ここでは省略します)。

 主役はウィル・スミスで、今回がデビューになる息子さんのジェイデン君との親子競演も話題を呼んでいます。ストーリーは、海軍OBで医療機器のセールスマンだった男(スミス)が、不運の重なる中で日本でいう「ワーキング・プア」の状況に陥ってしまいます。妻(サンディ・ニュートンがイヤな役を好演)にも去られた男は、アパートからも簡易モーテルからも追い出され、5歳の息子を連れて地下鉄に寝泊まりしたり、教会のホームレス用シェルターに駆け込んだりするのです。

 ただ、この男は「株のブローカー」になるという夢がありました。学歴も職歴もない彼は、無給のインターンを半年間務めることで、自分のキャリアを作ろうと必死で努力します。その貧しさと不運は目を覆うばかりなのに、常に前向きであり、息子を愛し、夢を捨てずに努力する、そんなウィル・スミスの何とも言えない演技は、口コミで広がっているようで、公開から一ヶ月近く経つのですが、まだまだ観客を集めるロングランになっています。現時点での興行収入は126ミリオン(約151億円)ですから堂々たる大ヒットです。

 この間のハリウッドでは、価値観の相対化や、格差の進行、あるいはリベラルと保守の対立疲れなどから「アメリカンドリーム」をここまで描いた作品はあまりありませんでした。ですが、この『幸せのちから』のヒットは、まだまだアメリカ人が「セカンド・チャンス」や「機会の平等」を信じているということを示しているように思います。

 勿論、極貧の中での苦労の描写が共感を呼ぶ心理には、雇用の不安定な社会、格差の大きな社会への不満が渦巻いているとも言えます。ですが、どんなに過酷であってもシステムが信じられるというのは希望のある話です。希望とは、楽観的に夢を追いかける個人の資質だけでは持ち続けることはできません。無給のインターンを必死で勤めながら、資格試験に合格するために睡眠時間を惜しんで勉強する主人公の姿が感動を呼ぶのは、その希望にリアリティがあるからですし、その背景にはシステムへの信任があるということを、この映画は教えてくれています。

 翻って日本の「労働ビッグバン」や「ホワイトカラー・エグゼンプション」の提案はどうでしょうか。そこには人々のシステムへの信頼を高めるようなメッセージ性は感じられません。競争力の名において、労働の成果を勤労者に分配する率を更に切り下げようという意図しか見えないとしたら、個々人の成長や努力への動機付けにはならないのではないでしょうか。

 例えば、日本の雇用問題の中で非正規雇用正規雇用化ということは重要なテーマだと思うのです。ただ、この問題が上手くいかないのは、現在非正規雇用に甘んじている人が「どうすれば正規雇用を得られるのか?」という道筋が見えていないことです。今は、「正社員経験のない30歳」が大企業の正社員として「ポン」と配属するようなことは、雇用側もその「30歳」の側もイメージとして描けない、そんな状況です。

 ここには補助金をいくら出しても問題は解決しません。「30歳」が何をしようとしているのか。そのためにはどんな努力をしようとしているのか。そしてその結果どういった可能性があるのか。そうしたシステムへの信頼から来る、人間としての自然な努力への動機付けの循環、これを確立しなくては「再チャレンジ」も何もあったものではありません。

 最後にその安倍政権が打ちだそうとしている「年収900万以上の残業カット」ですが、この900万という数字の対象になるのはどんな人なのでしょうか。残業込みで900万というのは「残業のつくヒラ社員」としては相当に上位に当たる収入です。
中には、毎月の固定基本給50万、賞与が5ヶ月分で250万(ここまでで850万)後の50万は残業で125%の割り増しを考えても残業単価が時間当たり3900円ぐらい、したがって年間の残業時間は120時間(一ヶ月10時間)程度というケースもあるでしょう。ですが、「ヒラ」で毎月の固定給が50万というのは非常にまれなケースです。

 あるとしたら「係長・主任」クラスで、管理職の一歩手前というグループでしょう。
このグループは、多くの場合は管理職昇進を「人質に取られ」る中で高い忠誠心を要求され、恐らくは膨大なサービス残業をしているのではないでしょうか。だとすれば、管理職昇進を待たずして「残業カット」の対象になったとしたら「手取りは大して変わらない。でも何だか空しい」という印象を抱くでしょう。まともな企業だったら、本人のモラルを考えると、こうした人を対象にわざわざ新制度を導入しないでしょう。

 そもそも多くの企業の場合は、管理職・専門職の年収は500万円台から700万円台がスタート地点であるはずで、900万円以上などという法制は何の影響も与えないはずです。厚生労働省も「対象者はごくわずかなので国民が心配する必要はない」という言い方をしていますが、対象が少ないのは間違いありません。ですが、このわずかな対象という人たちが問題なのです。

 そのわずかな中の多くのケースは、月間固定給が30万ぐらいではないでしょうか。そして賞与が5ヶ月出ていたとして、年収が900万になるとしたらどんな計算になるのでしょう。月給と賞与では510万、したがって年間の残業手当が390万、そして残業の時間当たり単価は2343円ですから、年間残業時間は1664時間、何と月平均で139時間という途方もない数字になるのです。仮にこうした人の残業をカットし、時間管理をやめるというのは、そのまま過労死を助長すると言われても仕方がありません。

 数字を高くして対象者を限定すれば国民が納得するだろう、「900万」の背景にはそんな発想が見て取れます。ですが、実際に残業込みで900万という人がいたとして、その人はどんな状況にあるのかを考えてみれば、その数字が全く別の意味を持ってくるのではないでしょうか。今回の「900万」にはそうした誠実さが全く感じられません。

 人事労政というのは、雇用側と労働側の利害の対立を調整する仕事です。両者にギリギリの利害があり、それがシャープに衝突する中で、誠実に実務を積み上げて相互の信頼を得、解決に導く仕事だと言って良いでしょう。その所轄官庁であるはずの厚生労働省も、その誠実さを見せて欲しいものです。制度設計に対する誠実さとは、生きた企業経営、生きた勤労者の生活の双方に当事者意識を持つことであり、両者がその将来展望を描けるためのシステムへの信頼を勝ち取ることだと思うのです。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report3_999.html

 
第278回 「アメリカの制度をマネするな」 配信日:2006-11-25

 (前半部略)

 さてアメリカの模倣が正しいかどうかということでは、もう一つ、大きな制度変更として、厚生労働省日本経団連が積極的に導入を目指している「ホワイトカラーエグゼンプション」(自律的労働制度)の問題があります。一定の年収を保障した上で、時間外手当(残業代)の支払いを対象外とするこの制度は、提案者側からは「アメリカで既に導入されている」というのですが、この問題は裁判員制度どころではない大変な問題を抱えていると思います。

 というのは、政府ならびに日本経団連は、恐らくは半ば意図的にアメリカの実態を歪曲して伝えているからです。その第一点は、アメリカでのこの制度は「管理職・基幹事務職・専門職」への「残業手当の適用除外」を定義したものであって、「ホワイトカラー・エグゼンプション」とはいっても、全てのホワイトカラーが対象ではないという点です。

 とにかく管理職・基幹事務職・専門職の必要要件を満たしたケースだけに適用されるのです。確かに金額で示されている規準だけを見ると、週給455ドルというのは年収換算で23660ドル(約279万円)と低いのですが、この金額というのはあくまで一つの要素に過ぎません。その前に、厳しい規準に示された実態を満たしていなくてはならないのです。

 例えば、アメリカの管理職の場合は「二人以上の部下に関する、採用権限を含む管理監督」を行っているかどうかがポイントになります。また基幹事務職(総務、経理など)では「非定型業務、自由裁量、自主的な判断」が主要な業務であるか、更に専門職の場合ですと「明らかな専門的教育に裏付けられた専門性、もしくは独創的な技能の発揮」という要件があります。

 こうした要件について、例えば厚生労働省労働政策審議会の議論などを見ていますと「アメリカでは金額で切っている」という前提で話が進んでいるようなのですが、これは事実の半分も語っていません。管理職であるか、専門職であるかの「要件」は非常に重視されていて、この要件を満たしていない場合に「お前はホワイトカラーだから」ということで残業代の支払いをしないということになると、これは訴訟などで大変なダメージを受けるようになっているのです。

 第二点は、この「要件」を受けて「エグゼンプト」の労働市場というものが確立しているという点です。管理職・専門職で残業のつかない職種の場合は、業種職種によって異なりますが、全国的に見て5万ドル弱あたりが最低だと思います。勿論例外はありますが、管理職の場合でもいわゆるマネージャー(課長さん)がその最低クラスになるのですが、基本的にはMBA(経営学修士)を取って(管理職にはMBAが要求されることが多いのです)の初任給はやはり6万から7万(あるいはそれ以上)です。結果で判断される、だから労働は自己裁量という分、まあ納得のできる給与水準が労働市場として存在しているのです。

 第三は、アメリカの労働省ガイドラインにもあるように「専門的な教育を受けた」という事実などの客観的な根拠が求められているということです。管理職にはMBA、経理専門職にはCPA(公認会計士資格)、法務部門の管理職にはバー(司法試験)などの公的な学位ないし資格が要求されますし、資格がない場合はそれ相応の職歴など、そして専門技術者の場合はそうした教育を受けたという事実が要求されます。逆に言えば、履歴書にはなんの根拠もない人間に「権限を与えているから」という理由で時間外手当を払わないのはダメということです。

 第四は、「エグゼンプトでない」つまり日本流に言うと「一般職社員」の労働市場が確立しているという点も重要です。この一般職は契約上「残業手当がつく」のですが、その代わり「まずほとんど残業をしない」し「出張も命じない」ことになっています。命令を受けて定型的業務はするが、その代わり家庭や地域活動との両立など「9時から5時まで」の人間的な生活が保障されているのです。年収としては2万ドルから5万ドルぐらいでしょう。この人達は組合と法律によって厳しく保護されており、本人の同意なく残業を強制することも不可能ですし、まして残業代を払わないということも不可能です。

 勿論、アメリカの労働事情にも深刻な問題があります。一般職の生産性が国際競争力を失う中で、現時点で言えば自動車産業などを中心にリストラが進み、実質的に落ち着いた一般職の雇用が減りつつあるという問題がまず第一点、逆に管理職の場合は成果要求が厳しくなっているために労働時間がどんどん長くなるという問題があります。この二番目の問題も深刻で、通勤電車の中でパソコンで仕事をしたり、休日でもメール端末(「ブラックベリー」など)をピコピコする風景、更にラッシュ時間が夜の九時台まで続くと、まるで日本のような様相を呈しているのです。

 ですが、さすがに残業のつく人と、つかない人のケジメは崩れてはいません。そして、それは単純な給与ベースでの規準ではないのです。もっと実態のある裁量性の問題なのです。こうしたアメリカの労働事情をほとんど伝えないままに、「アメリカで行われているホワイトカラーエグゼンプション」などとカタカナ言葉で煙に巻くのは不誠実な議論だと思うのです。

 日本の場合は、アメリカで厳格に運用されている「要件」について、そもそも確認のしようがありません。例えば、個別の管理職に採用権限はありませんし、そもそもホワイトカラーの場合は企業が大学教育における専門性を評価していないのですから、教育や資格によって人材の客観的な要件が把握できない体質にあります。また専門性と責任と職位もバラバラだったり、厳格に管理職や専門職は定義できないということになります。

 最大の問題は裁量性の問題です。日本経団連の資料によれば、日本のホワイトカラーは「頭脳労働」だから裁量性がある、とまあもっともらしいことが書いてあり、実際にこれまでの裁量労働制などもかなり拡大解釈して運用されてきています。ですが、日本のホワイトカラーで現在は残業手当の対象になっている人々の勤務実態には本当の裁量性はないのです。

 顧客からは名指しで問い合わせが来て不在だとクレームになる、突発的に資料作成を求める指示が入り自分の本来の仕事は後回しになる、他の同僚が忙しそうにしているので子供の病気でも早退できない・・・更に言えば、辞令一つで国内どころか海外にまで転勤を強制される、それを拒めば出世街道から「下りた」とみなされる。こうした非裁量性、それも激しいまでの「自己決定権の否定」があるのが日本の「ホワイトカラー」です。

 とにかく会社にいなくてはいけないし、そうでなくても携帯やメールが追いかけてくる、しかもほとんどのケースでは即答を求められます。人間関係を維持しないと仕事が回らない独特の文化のために、そしてやや過度なまでに即対応の求められる文化のために、一人一人の日本のホワイトカラーは一日のほとんどの時間に関して裁量権のない息苦しさの中におり、しかも組織の心理的・政治的な「空気」を維持するための儀礼的・儀式的な会議や出張を強制される中で、絶望的なまでの生産性の低さに甘んじているのです。

 そう申し上げると課長クラスなどの中間管理職も同じではないか、そんな声も聞こえてきそうです。ですが中間管理職と「ヒラ」では意識の上で違いがあります。部下のいる人間は、その部下に対して多少なりとも裁量権を行使することができるのです。ですが、そうした息苦しいヒエラルキーの最下層の人々には、少なくとも時間外の業務命令に対しては割り増し手当を受け取ることが人間の尊厳になっているのです。実質的に裁量権のない人間の時間外手当を奪うというのは、その人間の尊厳を奪う、つまり他人の命令に翻弄されながら何の見返りもない、惨めな存在に貶めることになると言わざるを得ません。

 もっと具体的に申し上げましょう。日本のほとんどの「ホワイトカラー」は退社時刻の5時ないし5時半、(いや職場によっては夜の7時とか8時ということもあるでしょう)に上司に「この資料をまとめてくれよ。今日中に頼む」と言われても、断れないのです。そうしたケースにおいても時間外手当が契約上ないし制度上全く払われないとしたら、その業務命令は代償のない一方的な暴力であり、その暴力に対する支配は隷従にほかなりません。そんな社会は文明的な社会ではないのです。

 そう申し上げると、そのような「突発的な命令」にも従うような「モラルの高い」人間を日本経済は必要としているし、本人も「仕事のやりがい」を感じていればハッピーなはずだ、そんな声が聞こえてきそうです。ですが、本当にモラルも能力も高いのなら二十代でもどんどんホンモノの管理職にして600万とか700万を払うべきですし、モラルだけ高くて能力の低い人間を命令とマニュアルで管理した上での「生産性」ということでは全く国際競争力はないと思います。

 いや「裁量労働」なのだから、時間外労働の埋め合わせとして代休ないし、遅出を認めるから大丈夫・・・これも非現実的です。例えば顧客対応の仕事、会議が重要な要素を占めるチームワークの仕事など「相手のある仕事」ではフレキシブルな勤務はそうは簡単ではありません。確かに、現在でも時間外労働に関する支払いは相当の部分があいまいになっています。いわゆる「サービス残業」でも発覚するのは氷山の一角でしょう。ですが、実態が払わない方向になっているとしたら、その実態が問題なのです。

 いずれにしても、出生率が下降を辿る中、長時間労働の問題と対決することこそ、日本社会の緊急課題ではないでしょうか。とにかく日本人は働き方を変えなくてはならないのです。労働時間を短縮し、生産性を向上するだけでなく、宴会や出張など広い意味での拘束時間も見直してゆくべきです。地方公共団体の裏金が問題になっていますが、そもそも組織の内部での飲食による親睦などというのはライフスタイルの問題として最低限にする必要があるはずです。自腹を切らせれば良いのではありません。
徹底的に減らすべきでしょう。

 時短をしなくては少子化が進むだけではありません。そのような総合的時短の中で徹底的に生産性を上げて行かなくては、最終的にどんどん国際化してゆく労働市場の中で日本のホワイトカラーは戦って行けないことになるのです。現在提案されている「エグゼンプション」は労働者個々人だけでなく、日本の競争力という面からも問題です。ここでいう生産性というのは、企業としての業務効率だけではありません。個々人が努力に見合う幸福感を得て、次世代を育むという意味での生産性も考慮しなくては社会は続いていきません。この点に関しても、労働時間管理を外したら、より悪い方向へと歯止めがなくなる危険の方が大きいのです。

 例えば「同一賃金同一労働」が叫ばれる背景に、正社員と非正社員の線引きがあいまいという問題があります。ですが、これが各職場レベルでは大きな問題になっていない背景には、暗黙のルールがあるのです。それは「正社員は宴会や儀礼的会議への出席が義務」であり「社内政治のコマとしての役割を期待される代わりに将来の管理職候補とされる」という「お約束」です。こうした企業文化こそ日本のホワイトカラーの生産性を先進国中恐らく最低の水準に低迷させているのですが、例えば「年収400万円以上は残業手当なし」というような制度ができれば、この状況を更に固定化するようなことにもなりかねません。

 この問題の大きな背景には「再チャレンジ」政策の一環としての「パートの正社員化」が絡んでいるようです。雇用の不安定なパート労働者が増えれば社会が落ち着かなくなる、だから正社員化をしよう、そこまでは結構な話です。ですが、その結果として人件費が高騰するのは何としても避けたい、それが産業界のホンネでしょう。そこをクリアするために、400万以上は残業手当なし、突発命令による時間外労働にも報酬なし、という制度で埋め合わせをしようとしている、そんな構図が見て取れます。

 何が最大の問題なのでしょう。第二次大戦で焼け野原になった日本経済が奇跡的な復興をしたのは、将来に希望があったからです。忙しくても一生懸命やれば自分も会社も社会も良くなる、そうした右肩上がりの希望が社会にあったからです。確かに現在の日本社会は、全体としての量的な希望については大きくは望めなくなりました。ですが、個々人の質的な希望はまだ残っています。努力をすれば何かが報われる、長生きをすれば少しでも幸福な社会を実感できる、そんな質的な希望があるから人々は真剣に仕事をし、製造業を中心にまだまだ競争力を保っているのです。

 考えてみれば20代から30代という「400万」の世代は、社会人としての経験と知識を学びながら、パートナーを探して家庭を育んでゆく重要な時期を生きているのです。そんな人生の時期に、歯止めのない労働時間、しかも時間管理のない中での一方的な服従の連続に心身を蝕まれてしまえば、人間としての質的な希望は吹っ飛んでしまいます。

 本当の裁量性のない、したがって自分で時間をコントロールできないポジションにある人々には、時間外手当という金銭でそのプライドを埋める、また会社側には歯止めをかける、そんな形で人間の尊厳を認めてゆくべきです。そうでなくては、質的な希望を抱いた人材が実現してきた高い生産性の神話は雲散霧消してしまうでしょう。このままカタカナの「エグゼンプション」という言葉に乗っかり、長時間労働という今日本が抱えている最も深刻な社会問題について逆行させるような制度導入がされるのは大変な問題だと思います。

 もう一度申し上げますが、アメリカの「ホワイトカラー・エグゼンプション」は日本で現在検討されている内容とは全く異なる制度です。「残業のつく人」と「残業のつかない人」を明確に区別するだけでなく、「残業のつく人」には残業をさせない、「残業のつかない人」には成果を求める代わりに裁量権を与える、これがアメリカの制度です。ブッシュ政権によって、経営側に有利な変更はされています。ですが、だからといって実質的な裁量権を与えず、時間のケジメもなく人を使っておいて残業手当も与えない、そんなムチャクチャはそこにはありません。

 小泉政権以来の日本には、アメリカ社会の模倣をすることが改革なのだという雰囲気が濃厚にあるようです。裁判員も、ホワイトカラーエグゼンプションもその流れに乗っていると思います。ですが、裁判員制度判例の重視による判決の一貫性を(悪い意味で)破壊する危険がありますし、ホワイトカラーエグゼンプションの問題に至っては、アメリカの労働慣行や制度を歪曲した挙げ句に、まったく別の非人間的な提案に変えてしまっていると言えるでしょう。思えば、この二つの例が実に粗雑な提案であるのは、国会での党議拘束が多様な選択肢をオープンかつ実務的に協議する環境を奪っているからだとも言えるのです。一党支配と官僚制度の中から常に最適解が出てくる時代は終っているのです。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report.php?tid=3&rid=957

実はまだ、上の引用の記事もきちんと読んでないのですが・・・
まず、900万という数字がいろんなところで出てきますが、であるなら、限りなく対象者が少ない、ゼロに近いのではと思います(以前もちょっと書いたと思いますけど)。
そのレベルなら、管理職か専門職か、あるいは裁量労働制になっているのではないですかね?大企業だとそうでもないのかな?
あと、こういう制度を導入してどうしたい、どうもっていきたいのかがわからない・・・
ホワイトカラーで、収入が多くて、専門性が高くなくて、特に成果を求められず、残業代狙いでだらだら仕事をしてもらっては会社として困る・・・そんな人、います?
まあ自分が勉強不足なだけだと思うけど、どなたか教えてください(^_^;)
個人的には、「事業場外みなし労働」を何とかしてほしい。それなりに勉強したり、専門家に訊いてみたりした感じですと、これを採用している企業の大半は「違反」です。極端に言えば会社に机がなく直行直帰で携帯電話も持っていない・・・このぐらいならさすがにどんな世間知らずの嫌な労働基準監督官にも突っ込まれることはないと思いますが(笑)
大半が違反なら、制度そのものが悪いと考えるのが普通だと私は思います。